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源義経は名将だったか?

久々になってしまいました。またこれからコツコツと投稿していきたいと思います。

今回は名将とか軍事の天才とか言われることの多い源義経についてです。海上知明氏の「義経」愚将論を読んだ感想を述べたいと思います。

 

定説、通説、後世の創作の印象

 

栄華を誇った平家をすぐさま滅亡へと追いやった印象が強いせいか、源義経は名将であるという評価が一般的です。

 

しかしながら、私はこのことについて疑問に思っていました。

 

どうもこの人は総大将なのに、少人数の部隊で動きたがる傾向があるようにおもえたからです。一の谷しかり、屋島しかりです。

 

また、屋島、壇之浦についてはなぜ源氏が勝ったのかよくわからないんですよね。扇の的のエピソードは有名ですが、それがどう勝ちに結びついたのか全くわかりませんでした。なんか気付いたら平家が撤退していたみたいなもので、納得行く説明を聞いたことがありませんでした。

 

そして、なによりその最期です。頼朝と対立して兵を挙げようとするも集まらず、奥州藤原氏のもとへ落ち延びて、最期は藤原泰衡に討たれました。

 

兵が集まらなかったということは、当時の武士の大多数は頼朝が勝つと見ていたということです。つまりは義経の評価は低いものだったということにはならないでしょうか?

 

 

 

勝ったから名将」ではない

 

この本では、当時の合戦のあり方。とりわけ動員兵力や、両軍の動き、兵站などの考察や、義経の性格などを述べたあとで、「凡将と呼ぶのももったいない愚将である」という結論を述べています。

 

平家物語のような軍記物では兵数が過大に記されています。それは当然としても、「話半分としても〇〇万の大軍ということになる」というようにろくな考察もせずに適当な記述をしてある書物は意外に多いのです。

 

この本では当時の経済状況などから現実的は数字を割り出そうとしています。そのうえでやはり数の上では平家が有利だったようです。

 

その上で3連勝で平家を滅亡ですから、やっぱり名将では?と考えたくもなりますが、これはまぐれ当たり3連発と解釈すべきだそうです。

 

一の谷では、後白河法皇による停戦命令がありました。それを受け入れて平家が武装解除したところで攻撃をかけた完全なだましうちでした。

 

そうなると軍船を焼かなかったことや、安徳天皇三種の神器を逃したことは失態だったと言わざるを得ません。この一戦でかたを付けることができたはずなのを、みすみす逃したからです。

 

そもそも「鹿が降りられるなら馬でも降りられる」とかなんの根拠にもなっていませんし、総大将が落馬して大怪我をしていたらどうなっていたのでしょうか?

 

一の谷のあと、一時、義経が平家攻めから外されたもの納得できます。

 

屋島はさらに訳がわかりません。暴風雨の中、強行渡海。ついてこれた少人数の兵だけで強襲。平家軍を海上に追い落とすも、源氏の兵が少ないことを気づかれ、逆襲をうけあわや義経が討ち死するところ家臣が身代わりとなる大ピンチ。

 

その後、那須与一が扇の的を射抜く有名なエピソードのあと、何故か平家は壇之浦に撤退していきます。

 

その理由は、よくわかっていないそうです。このとき平家は知将平知盛が不在で、兄で清盛亡き後当主になっていた平宗盛が総大将でした。

 

もうすぐ源氏の援軍が来ると思い込んだのか?なにか重大な勘違いがあったのか?そもそも扇の的になんの意味があったのか?よくわからないそうです。

 

ともかく義経は自滅寸前で平宗盛に救われた形となります。

 

壇之浦では、特に策らしい策はなく、裏切り者が出たため源氏の勝利となりました。水上での戦いに慣れていたのも、地形や潮の流れも熟知していたのは平家側です。

 

それが裏切り者のために決定打を与えることができず、安徳天皇の居場所を偽装して義経を討ち取る策も不発に終わり、逆に平家の滅亡へと繋がりました。

 

前日に平知盛が、こいつは裏切るかもしれないから斬るべき、と主張したのを、平宗盛が、長年平家に尽くしてくれたのだから、と止めたそうです。

 

こうしてみると義経が勝ったというより宗盛が勝手に負けたという方が正しそうです。

 

義経は短絡的で残忍なところもあったようです。戦の前に民家にひをつけたりしています。宇治川の戦いでは渡河中の味方を守るための煙幕として、という意味もありましたが、屋島では攻める前に家を焼いて平家に気づかれてしまっています。なんの意味もありません。

 

また、一の谷で討ち取った平家の武将の首を槍の先につけて京の都を行進しています。残酷だからやめるように抗議をうけても聞き入れなかったようです。

 

そもそも平家を滅ぼすことよりも安徳天皇の身柄や三種の神器のほうが重要で、頼朝からもそう命令を受けています。にもかかわらず、平家側と交渉した形跡は全くありません。海に沈んでから慌てて探しただけです。

 

優先順位が全くわかっていないあたり名将とはお世辞にも言えません。ただ平家を滅ぼしたいだけの脳筋だったのでしょう。

 

また、手柄を部下と争う、血筋を鼻にかけ上から目線で人と接する、部下の統制が取れておらず狼藉を働いているなど人心を得ようとする気持ちが見えないなど、名将とは程遠いと言わざるを得ません。

 

頼朝が義経恐れたわけ

 

そんな義経を頼朝が恐れたわけは、ただその血筋のみです。軍事的才能ではありません。

 

才能を恐れていたのなら、平家を滅ぼした義経を手放しで褒めるはずです。鎌倉に凱旋した義経を手厚くもてなして酒宴の席で暗殺すればよいのです。わざわざ腰越から追い返して自分に背くように仕向けるはずがありません。

 

頼朝は自分に反抗的なものをあえて義経の元へ走らせて、まとめて始末しようとしていたようです。結果的に奥州藤原氏を討伐する大義名分ばかりか、後白河法皇に守護・地頭の設置を認めさせることにも繋がりました。

 

頼朝は、平治の乱のとき本来殺されるはずだったのに清盛の温情のお陰で助かった流人です。つまり力はありません。

 

中央から距離を置きたかった関東の豪族たちをまとめるための神輿にすぎないのです。それは源氏の血を引いていれば誰でも良かったのです。頼朝は源氏の嫡流と言われていますが、結果的に征夷大将軍になったのでそう見えるだけです。

 

前九年の役後三年の役で名を挙げた源義家の子孫の中で、生き残っていたものの中で一番年長であっただけのようです。実のところ関東の武士たちにとって、源氏であれば義経でも義仲でも良かったわけです。

 

なので頼朝は義経だけでなく弟たちを死に追いやっています。そのことが源氏将軍が3代で耐える原因になるわけですが。

 

義経記の影響

 

義経が稀代の名将ともてはやされるきっかけとなったのは室町時代初期に成立した「義経記」です。

 

これは軍記物というより義経の伝記です。今日知られる義経の伝説の元ネタというべき書物で、義経を悲劇の英雄としてこれでもかと持ち上げているようです。

 

江戸時代は勧進帳が歌舞伎の人気演目になるなど義経人気は上昇しました。

 

明治に入って陸軍参謀本部では、古今東西の合戦が研究されましたが、これが後に悪影響を及ぼした可能性があります。

 

太平洋戦争中の無謀な作戦に影響を与えた可能性があるのです。地図も持たせず山中を行軍させたり、敵状がよくわからないのに少数の部隊に突撃させたりです。

 

こういうことを義経はやっているのです。成功したから良い作戦だ、名将だ、では短絡的すぎます。

 

そして、数々の歴史小説やドラマなどの創作物で義経の名将のイメージが固まって来たと言えるでしょう。

 

歴史において様々な人物、事件の評価は立場によって、また時代によって揺れ動きます。悪く言われていた人が再評価されていく例に比べて、その逆のパターンはあまりないように感じます。

 

「悲劇の英雄」としての源義経が好きな人にはおすすめできませんが、違った角度から歴史を見るのも大切だと思える人にはぜひ一読を勧めてみたいですね。

 

 

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