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人に求められた役割を全うした男【討ち入りたくない内蔵助】

またまた、同じ作者さんの小説です。これで3連続ですが、松の廊下ときたら討ち入りまで行かないとね。

 

忠臣蔵とは私にとって謎でした。どうしても多々一人の老人を寄ってたかって殺してしまった、ただのテロリストにしか思えなかったからです。しかし何故か美談として語られています。どうしてだ?それにお家取り潰しの不祥事をやらかした浅野内匠頭にたいして家臣からの恨み節は聞かれなくて、吉良上野介を討つことがなき主君の無念をはらすことにつながるのか、わかりませんでした。

 

それは当時と今とではあまりにも、常識、価値観がちがいすぎるからでしょう。

 

本作は浅野内匠頭切腹の会場へ向かうところから始まります。このとき内匠頭は冷静さを取り戻しており、自分のしでかしたことを後悔していました。お家取り潰しとなって路頭に迷うであろうか心への申し訳なさもありましたが、それよりも吉良上野介を討ち果たすことができなかったことを一番に悔いているのです。

 

しかも、このときは吉良上野介への恨みの感情はすでに消え失せているのに、です。どうやら泰平の世となっても、戦うことが武士の本分であり、刀を抜いて切りかかっておきながらうち損なうとは武士の恥であり、無念である……ということのようです。書いていて私もよくわかりませんが、そういうものとして受け入れるしかないようです。

 

もう一つよくわからないのが喧嘩両成敗の原則です。刃状沙汰があれば斬りかかられた方もそれなりの理由がある「はず」ということで、切腹となるというものです。つまり斬りかかられた時点で死亡確定です。抵抗しなかったら斬り殺され、抵抗してもいづれ切腹させられます。このことは当時の武士の当然の常識であり、江戸の町人もその事は知っていました。

 

つまり誰もが「吉良上野介切腹だろう」と思っていたところ、まさかのお咎めなし。ということで赤穂浪士たちは怒り狂い、吉良邸に討ち入るのではないかと当初から予想する人も多かったようです。

 

どうして喧嘩両成敗なんてものが常識として定着したのかわかりませんが、これも当時はそうだったと受け入れるしかないでしょう。

 

さて、浅野内匠頭切腹のとき、用意された会場が大名の格式でないことに憤りとおぼえましたが、逆に皮肉を込めて丁寧にお礼の言葉を述べてから果てました。

 

さて、赤穂にいた大石内蔵助は突然の凶報に接してうろたえます。彼は本音では自分は武士にも家老にも向いていないと思っていましたが、彼の家柄が辞める事を許してくれないため、「赤穂藩筆頭家老 大石内蔵助」という仮面を被り、かろうとしての責務をなんとか果たしていました。そこへ、この凶報です。彼は「筆頭家老 大石内蔵助」として「こんなアホなことのために藩士を殺しちゃいかい」と決意します。

 

一方、他の赤穂藩士たちは「籠城して城を枕に全員討ち死」するという強硬論へ傾いていました。しかし、内蔵助はただ声の大きい意見に引っ張られているだけで、全員が同じ気持ち出ないことを見抜きます。そこで、結論を急がず冷静になるための時間を稼ごうとします。しかし、その間にも続報が入り浅野内匠頭が即日切腹になり、赤穂藩は取り潰しとなったのに吉良上野介は存命でしかも、お咎めなしとなったことがわかり、強硬論のほうが強いまま、議論は推移します。

 

筆頭家老として結論を出すよう求められた内蔵助は、城は大人しく引き渡すかわりに、収城使(城の引き渡しのための使者)の到着を待って、城門の前で全員切腹すると決めます。これは籠城すれば逆賊、しなければ臆病者(これも当時の武士にとっては大変屈辱的な言葉だったようです。今なら臆病も一種の美徳と捉える人も多いでしょうに)という地獄の2択を回避し、第3の道を示した形となります。しかも、抜けたいものは抜けてもいいといい、籠城も切腹もしたくないものために逃げ道も用意しました。これに乗る形で籠城反対を表明していた末席家老が抜け、何人かの藩士がこれに続きました。

 

それから内蔵助は城を完璧な状態で引き渡すことを宣言、徹底的な掃除と完璧な目録、帳簿の作成にと藩士たちに仕事を割り振ります。その後切腹のことは口にしなくなりました。仕事に忙殺されるうちに生への執着が生まれてくるものもおり、段々と切腹の話はなかったことになりそうな雰囲気になりました。もちろん、一部には切腹の話はどうなったのだと憤るものもいましたが、筆頭家老があれだけはっきりと宣言したことについて改めて確認も取り難く、一部のものだけで切腹しても、ただ無視されるだけで無意味ということで、本当に切腹の話は有耶無耶のうちに消えてしまいました。

 

感情論に流されて暴発しそうな人たちを落ち着かせるにはどうすればよいか、勉強になりますね。

 

これでとりあえず藩士を大量に死なせる事を回避した内蔵助は次の目標を浅野家再興に定めます。

 

城を完璧な上程で収城使に引き渡して、彼らの感心と同情を買った上でなりふり構わず泣き落とし戦術にでます。浅野内匠頭の弟・浅野大学を当主として浅野家の再興と吉良上野介の処分の再考を幕府へとりなしてほしいとりなしてほしいと訴えます。これは普通なら絶対に成功するはずがありませんが、江戸では浅野家への同情論が高まり、それにつられて浅野家に対して同情的な発言をする幕閣のでてきている、との情報を掴んでいた内蔵助は一縷の希望をみいだし、土下座、泣き落とし、土下座、泣き落としのオンパレードで彼らを追い詰めます。

 

ひょっとしてら籠城戦もあり得るかもと内心怯えていたところに、拍子抜けするほどあっさりした、そしてみごとな城の引き渡しで感心していたところに筆頭家老のなりふり構わぬ泣き落とし戦術。しかも何度も何度も……。

 

ついに気まずさに耐えきれずに収城使は「江戸に帰ったら若年寄に相談する」と言質を与えてしまいます。これでとりあえず、一縷の望みは繋がりました。

 

その後は京都山科へ居を移し、浅野家再興運動を行いつつ、江戸にいる討ち入りを強硬に主張する堀部安兵衛高田郡兵衛、奥田孫太夫らを抑えていました。

 

そこへ吉良上野介が幕府より屋敷替えを命じられて郊外へ引っ越したという知らせが入ります。これは警備のレベルが格段に下がったことを意味し、討ち入り強硬派は色めきます。

 

勝手に討ち入られては、浅野家再興運動は水の泡と消えてしまうので、内蔵助は説得のために何人か江戸へ派遣します。しかし、何故かみな逆に説得されて討ち入り派へ転向してしまいます。たまらず、自ら江戸へ赴きます。

 

先に派遣したものがみな転向してしまった理由、それは江戸の空気でした。江戸では幕府は内心、赤穂の浪士たちに吉良を討ってもらいたいのだという憶測が流れたのです。吉良の屋敷替えがその証拠だとし、今日明日にでも討ち入りがあるのではという噂でもちきりでした。しかし、一向に討ち入りが行われないので、赤穂の浪士を腰抜け呼ばわりするものも出てきている始末でした。

 

その空気のなか孤軍奮闘する内蔵助は、討ち入り派が吉良邸の図面や屋敷内の人数を掴んでいないなど討ち入りの具体的な計画が何もできていないことを痛烈に批判し、流れを変えます。堀部安兵衛が参加人数が確定していないので計画が立てられないと弁明すれば、内蔵助は10人ならこう、30人ならこう、50人ならこうと、場合分けして考えておくものだと一刀両断します。大石内蔵助、やっぱりデキる男です。

 

結局、浅野内匠頭の1周忌までは討ち入りはしないこと、それを過ぎても浅野家再興がなっていない場合は討ち入りを行うことで合意が成立します。

 

しかし、その直後に2つのニュースが自体を大きく揺さぶります。一つは吉良上野介の隠居がみとめられたこと。隠居してしまえば現役時代のことで処分を受ける可能性はなくなります。その上、江戸にいる義務もなくなるので上杉家15万石に引き取られる可能性も高くなりました。上杉家の当主が吉良上野介の実子で、養子に入って上杉家を継いでいました。その縁でいつ引き取られてもおかしくない、そうなれば討ち入りは絶望的です。

 

もう一つは討ち入り派急先鋒の一人だった高田郡兵衛の脱退です。理由は親戚の旗本の家へ養子へ入る話が持ち上がったためです。このことは討ち入り派はもちろんのこと、内蔵助にも大きな衝撃を与えました。彼は討ち入り派の結束に疑問を呈し、改めて浅野家再興の意義(死なずに済むし、みんなしあわせになれる)を強調し、討ち入りの期限を1周忌から3周忌までと大幅延長することに成功しました。

 

してやったりなはずの内蔵助でしたが、内心は荒れていました。

 

「阿呆が…。どいつもこいつも、生半可な覚悟でいい加減な事いいおって。逃げたいのなら、儂のほうがお主らの百倍も逃げ出したいわ。なんで討ち入りしたくない儂がこんなくだらん話に嫌々つきあわされてて、自分から喜んで討ち入りじゃ討ち入りじゃと吠えとった奴がホイホイ手のひら返ししとるんじゃ。ホンマ、クソすぎるやろうこんなん……」

 

更に2年も待てるわけがない討ち入り派は討ち入り派で、内蔵助を外して新たな盟主を仰いで討ち入りしようと企てます。しかし、新たな盟主など見つかるわけもなくただ無為荷解きを過ごすことになります。

 

内蔵助はこのあと、妻と離縁することになりました。内蔵助の妻は武家の娘としての教育を受けてそだったこともあり、夫に浅野家再興より討ち入りを優先するよう勧めていました。家庭内でも味方のいない内蔵助は、とうとうこのすれ違いに耐えられなくなり妻に離縁を申し渡します。しかし、妻は討ち入りを行うための身辺整理と勝手に解釈して文句も言わず、涙も見せることなく内蔵助の元を去っていきました。

 

そんな妻を見て内蔵助は「まるで『浅野家筆頭家老 大石内蔵助』という概念と結婚していたみたいではないか」と思います。

 

その後、内蔵助は心のタガが外れてしまい、郭通いを始めます。一度くらいバチは当たらんやろう、という軽い気持ちで一度言ったらやめられなくなり、連日通いだします。

そして、外聞が悪いと思った親戚連中から町人の娘を妾としてあてがわれます。相手が誰かも知らされずに来たという町人の娘・お軽に内蔵助は思いっきり甘えまくり、それでようやく心の平穏を取り戻します。何十年と「赤穂藩筆頭家老 大石内蔵助」という仮面を家にいるときですら被ったままでいた内蔵助は、ここでようやく素の大石内蔵助になれました。しかし、その素の自分が一体何をやりたいのかわからないままでした。

 

堀部安兵衛ら討ち入り強硬派としても、自体は芳しくありません。大石内蔵助を外して討ち入りを行うと決めたはいいものの、かわりの盟主も見つからず、人数も集まりません。幕府が赤穂の浪士に吉良上野介を討たせたがっているという噂が流れたため、それならば討ち入っても死なずに済むかもしれない、浅野家再興も認められるかもしれない、そうなれば再興された浅野家での序列は討ち入りに参加したか、討ち入りでどれだけ手柄を上げたかで決まるに違いない…、と憶測が憶測を呼んでいるような状況でした。そのため、堀部安兵衛主体の討ち入りなど意味はなし、元筆頭家老・大石内蔵助の目の前で手柄を上げてこそ意味があると考えるものばかりだったのです。

 

浅野家再興も討ち入りも全く話が進まないまま、時間が過ぎようとしていたとき浅野内匠頭の弟・浅野大学が広島の朝の本家での預けとするという裁定が幕府より下りました。これは大名や公家といった貴人に対する刑罰の一種であり、浅野家再興ののぞみが完全に絶たれたことを意味します。

 

藩士たちを一人も死なせないという決意の元、内蔵助してきた1年4ヶ月の苦労が水の泡と消えました。幕府は最初から浅野家を再興させるつもりがなく、ただ世間が松の廊下の事件の興味を失っていくのを待っていたのだと内蔵助は悟ります。彼の中に湧き上がってくるのは、脱力、それから諦念、そして最後に残ったのが怒りでした。

 

そして、吉良邸討ち入りを行うことを決めます。内蔵助のモチベーションとなったのは一つは幕府に対する怒り。これまで散々振り回してくれたせめてものお返しに、これ以上ないほど美しくて完璧な討ち入りを決めて、将軍綱吉に自分たちの処分のことでさんざん悩ませる。もう一つは、討ち入り強硬派への申し訳無さ。これまで散々待たせておいて「浅野家の再興はもうなくなったから、あとは勝手にせい」と突き放すのではあまりにも無責任すぎるというものです。彼は「浅野家筆頭家老 大石内蔵助」という仮面を外した素の自分が、文句を言いながらでも責任から逃げないことを臨んでいると自覚したのです。

 

内蔵助は集めた赤穂の浪士たちの前で討ち入りを宣言しました。そして、チャンスは一度きりであり失敗は許されないこと。そのために討ち入りを行うための三条件をかかげます。

 

一つは、吉良邸の間取り、家臣の人数を把握できていること。

一つは、吉良上野介が絶対に在宅していることの確認がとれること。

一つは、こちらの準備が完璧にととのっていること

 

以上、三条件を整えるべく浪士たちは動き出します。こうして長らく動かなかった討ち入り計画が動き出します。堀部安兵衛は自分たちだけでやろうとしても、全く話が進まなかったことが、大石内蔵助がトップに立った途端あっさりと動き出したことに複雑な思いをいだきますが、その気持を押し殺して討ち入り準備に邁進します。

 

その内蔵助は、全く手応えのない上に孤立無援だった浅野家再興運動と比べ、やることが明確で仲間が積極的に協力してくれる討ち入り計画に面白さを感じていました。

 

「でもこれ、人を殺して自分も死ぬ準備なんやけどな」

 

などと時折、自嘲気味にわらってみるものの計画を止めることはありませんでした。

 

そして、計画は順調に進み、いよいよ討ち入りです。吉良邸での2時間近い戦闘のあと、ついに吉良上野介を討ち取ります。上杉家からの援軍を警戒していましたが、結局それはなく、浅野内匠頭の墓がある泉岳寺にたどり着きました。そこで主君へ吉良上野介の首を捧げたあと、大人しく幕府の沙汰に従いました。

 

大石内蔵助が企図したとおり、吉良家以外の人間は誰一人害さず、火元には水をかけて立ち去るなど万に一つも火事にならないよう配慮し、ことが終わったあと、自ら大目付に報告して大人しく幕府の沙汰をまったことなど、これ以上ない美しくて完璧な討ち入りであると世間からみなされました。

 

将軍綱吉は最初、命を助けるどころか褒美を与えようとすらしました。儒学大好きな彼にとって赤穂の浪士たちは「誠にあっぱれな忠義者」だったのです。しかし、完全なイエスマンだった柳沢吉保にさえ苦言を呈され、苦悩します。幕府の法に触れた彼らを許すわけに行かない。しかし、死なせるには惜しい。彼は一ヶ月半の間苦悩し続けます。

 

一方の赤穂の浪士たちは4つの大名家に別れて預けられます。内蔵助は細川家へあずけられ、そこで大いに歓待をうけます。世話役の家臣が何人もつけられ、毎日ごちそうでもてなされます。世間での評判もきかせてくれて、「ひょっとして助かるのでは?」という希望も見えてきます。

 

そんな中、内蔵助は「余計な希望は持つな」と自らの心に言い聞かせ、迫りくる死について思いを馳せていました。彼の目論見通り、綱吉が心を悩ませていることは知りません。しかし、最後の最後で見苦しいふるまいをして赤穂の浪士の評判を落とす訳にはいかないと何度も思い返します。

 

そして、ついに切腹の沙汰がきまりました。内蔵助は「さんざん悩んで結局殺すんかい」と心のなかで悪態をつきながら、口では丁寧にお礼を述べてから脇差しを腹に当て最期のときを迎えます。

 

こうして、浅野内匠頭切腹に始まった本作は、大石内蔵助切腹で幕を閉じました。

 

結局のところ自分から求めたわけではない「浅野家筆頭家老 大石内蔵助」という役割を彼は最期まで見事に演じきりました。自分ならさっさと放り投げるのになあというのが偽らざる感想です。逃げずに最期まで演じきり、はるか後世まで語り継がれる美談の主役となれたことは本望であったのかどうかはわかりません。でも素直にかっこいいなとは思いました。自分が同じ立場なら同じことはしないでしょうが。

 

それにしても前作「あの日、松の廊下で」の主人公・梶川与惣兵衛と本作の主人公・大石内蔵助のお互いの評価の差が面白いと思います。

 

梶川与惣兵衛から見た大石内蔵助は主君の苦悩に気づくことなく、事が起こるまで放置しておいて、取り返しのつかないことが起こったあとで見当違いの凶行に及んだ無能者です。

 

大石内蔵助から見た梶川与惣兵衛は、イラン事してくれたアホです。与惣兵衛が抱きとめなければ、浅野内匠頭吉良上野介を仕留めており、討ち入りなどハナからやる必要がなかったからです。

 

この二人はお互い面識のない赤の他人です。事情を知っているか、知らないかによって

見えてくるものはだいぶ違ってくるのだなと当たり前のことながらしみじみ思います。

 

ともあれ忠臣蔵ははるか後世まで語り継がれる美談となりました。これは大石内蔵助の文字通り命をかけた一大政治プロパガンダが功を奏した結果と言えるでしょう。

 

もちろん、これは小説の中の話で、実在の大石内蔵助とはぜんぜん違うのでしょうけど、今までさっぱり分からなかった忠臣蔵の物語が少しは理解できたように思います。